東大寺大仏殿東方の丘上にある。治承[じしょう]の兵火は免れたが、鎌倉時代に再建された豪放な建築。高さ約3.9m、重さ約26トンの大鐘で、奈良太郎の呼び名で親しまれている。出典:ヤフーマップ本鐘は、東大寺大仏開眼供養に際して鋳造されたもので、『南都七大寺巡禮記』によると、大仏鋳造修了後の天平勝宝二年(750)正月より型を造り始め、翌年の十二月に鋳込むが不成功であったため、さらに翌四年正月八日より改めて造り、三月七日に竣工、四月八日の大仏開眼供養の前日に鐘楼に懸けられたということである。
本鐘の大きさは国内随一で、細部に至るまで勇大な趣の意匠である。
- 鋳銅製。極めて大形の鐘で、高さに対して口径が著しく大きく、そのたの箇所も大形に造られる。
鐘身の形は緩やかな曲線で強く広がり、横帯より垂直に下る。竜頭は口を大きく開いて笠形を噛み、額に二本の角をつけ、顎に渦文を飾り、頸に宝珠をつける。上部には火焔を欠損するが、蓮華座にのる宝珠を奥。笠形は上面に二条の紐を廻らせて三区に分け、周縁には掛金具座6個を鋳出す。
上下帯は素文。横帯の主線は五条の紐を幅広く廻らし、乳の間と池の間のあいだは縦帯を通して幅広い五条の紐を廻らす。乳は各区に四段九列に配置して総数144個を付す。乳の形は宝珠形で頸部がくびれ、妙心寺鐘や観世音寺鐘と共通する。駒の爪は大きく、出は浅い。撞座は八葉複弁の蓮華文を表し、竜頭の花先と直角に交叉する位置に据える。 - 総高386.0 口径276.6 口厚24.2 (㎝) 出典:文化遺産データベース
東大寺を建立した聖武天皇は全国に国分寺を建立し、その総本山として巨大な大仏と大仏殿を建立した。巨大な寺院、仏像を造り、仏教を通じて国家の統制をより強固なものにしようとしたのであろう。 大仏の大鐘が吊り下げられている鐘楼(国宝)は、第2代の東大寺大勧進職となった栄西が建永元年から承元4年(1206-10)ごろ再建したもので、最初の鐘楼は永祚元年(989)の台風で倒壊している。また、梵鐘も鐘楼の倒壊や地震などで鐘が落下するなどの災難に何度もあっている。 大仏の大鐘をつく撞木(しゅもく)はケヤキ造りで長さ4.48m、直径30cm、この撞木が鐘にあたる所の撞座(つきざ)は直径50cmもある。だが、東大寺ではこの鐘をつく時は撞座の下をついている。不思議に思う人もいることだろう。これにはいろいろ伝説がある。鎌倉時代の力持ちの武将・朝比奈三郎がこの鐘をついたところ、三日三晩鳴りやまなかったので、その後、撞座の下をつくようになったと言う説や、国宝に指定されてから撞座の模様に傷がつかないように撞座の下をつくようになったとか…。出典:歴史街道 広瀬栄一氏は、石岡市高浜にある酒造会社の元社長で考古学文学に造詣が深く文人との交流も数多くあります。 台東区根岸にある子規庵の戦後の再建をした寒川鼠骨との交流や再建を経済的に援助した人です。
拓本は広瀬氏が収集したものしかないと思われ大変貴重な史料です。 拓本が取れるという広瀬氏の人脈に驚嘆します。 拓本もまた文化財だと思います。 保護新聞紙は、昭和41年6月21日付 いはらき です。
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てれば大変嬉しいです。
写真にあるスケールは全長17㎝です。 画像4のサイズは139×69.3㎝です。 状態は経年によるシミヤケや破れがあります。 発送は追跡可能なクリックポストかゆうパック80サイズを予定しています。 東北関東東海信越北陸地区の場合1200円です。 |
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